2010年4月21日水曜日

どこへでも「現代朗読」を持ってお邪魔しますよ

 先日の現代朗読一日講座(http://www.roudoku.org/ws/ws_1day.html)の参加者に、茨城からお越しの方がおられた。
 一日講座や体験ワークショップにはけっこう遠方から来られる方が多い。これまでにも名古屋、三重、岐阜、滋賀、静岡、石川、富山、新潟といった中部地方を中心に、関西、四国、そして東北、北海道からの方も来られている。茨城がとくに遠いというわけでもない。
 こういった方はほとんどがネットを検索し、現代朗読協会のホームページを読み、ときには私のBLOGやYouTube映像をご覧になって、申しこんで来られるのだ。
 なにしろ遠方からのお越しである。参加費のほかに交通費や、場合によっては宿泊費も必要になるだろう。それだけの時間と費用をかけてわざわざお越しになるのだから、それなりの強い動機がある。

 多くの方が、地方ゆえの、学ぶ機会の少なさを理由にあげる。地方でもカルチャーセンターや自治体、放送局が主催する朗読教室はある。が、それらのいずれもほとんどが、私のいうところの「従来型」の朗読教室なのだ。
 私がいう「従来型」というのは、昭和以降、とくに戦後のラジオやテレビなどのマスコミ媒体で職業的に活躍しはじめたアナウンサー、ナレーター、声優、放送作家、といった人たちが教師となっておこなっている朗読指導の場のことだ。もしくはその方たちに指導を受けた孫請けの指導者による教室のことだ。
 これらの多くが実演者による「経験則」に基づいた指導が中心になっているのに対し、現代朗読協会では「コンテンポラリー」な「表現」についての、多ジャンルを横断的に参照しながらの、経験や伝統にのっとらない理論と実践によるゼロからの朗読表現をおこなっている。
 従来型の、日本語発音がどうの、滑舌がどうの、美しくなめらかな発声がどうの、作品の内容を正しく伝えるための抑制された表現がどうの、といった指導内容に物足りなさや違和感を覚えている人が、現代朗読協会のホームページを読んでなにかビビッと来るものを感じ、遠路はるばるやってくるということらしい。
 とくに地方でなくても、東京でも事情は似たようなものだと思うけれど。

 現代朗読協会でやっていることは、一見、表面的には従来型の朗読とあまり変わらないように見えることがある。げんに多くの朗読指導者の方が、
「結局は私たちとおなじことをやっているんですね」
 という感想を持たれる。とくに、コミュニケーションとしての表現をめざしていること、表現者とオーディエンスとの共感の場を作ることが目的であること、などを説明すると、表面的に「おなじことをやっている」というふうに受け取られることが多い。
 実際にはまったく違う。出発点が違う。トラディショナルもしくはそれですらない「芸能」と、コンテンポラリー表現の違いなのだが、これはなかなか言葉で説明しつくすのは難しい。深く理解してもらうことも難しい。
 だから私はこのように、毎日こつこつと、実演者はもとより、オーディエンスの側にもなんとか私たちが目指している「現代の」「いまの私たちのあるがままの共感としての」表現の場について理解してもらいたいと、しつこく言葉をつらねつづけているのである。

 話がずれた。こんなことを書きたかったのではなかった。
 地方はもとより、東京近辺においても、もし「現代朗読について知りたい、やってみたい」という人がいたら、どうぞ気軽に声をかけてほしい、ということだ。
 先日の茨城の人も、何人か集まって勉強会をやっているという。そのなかで彼女がひとり代表となり、一日講座に現代朗読のエッセンスを学びにきたのだという。彼女が持ちかえったエッセンスはお仲間の皆さんにいくらかでも伝わっただろうか。もしそうだとしたらこんなにうれしいことはない。
 それより、皆さんの集まりの場に私を気楽に呼んでくれればいいと思うのだ。茨城くらい近いものである。
 茨城でなくても、北海道でも九州でも、あるいは練馬でも、私はどこへでもお邪魔する用意がある。ひとえに、現代朗読のエッセンスについて、なるべく誤解なく、深く理解していただき、だれもにその方法を応用して自由で生き生きした表現活動を明日からでもやっていただきたいからだ。