2010年11月30日火曜日

朗読ゼミ・ブンガク部とはなにか/あるいはブンガクとはなにか

今夜はこれから現代朗読ゼミの月一回の活動である「ブンガク部」が開催される。
朗読において、その表現材(テキスト)として文学作品を扱うことが多い。とくに著作権処理に面倒がない古い文学作品を使うことが多い。
古い文学作品を使う理由は、ただ「著作権処理が面倒でない」という理由だけではない。朗読行為と深く関係がある「人が言葉を使ってなにかを表現する」という原理的な行為の結晶がそこにあり、また明治後期から昭和にかけての近代文学には、文学行為の要素がほとんどすべて現出されているからだ。
つまり、わざわざ現代文学を使わなくても、文学行為に深くコミットした朗読行為が可能である、ということだ。
これらの「著作権が消滅した古い文学作品群」は、もうひとついえば、50年、100年という時をへていまだに読みつづけられているテキストであり、それにはそれなりの理由がある。いま、たとえば本屋の店頭に毎月のように現れては消えていく膨大な量の文芸作品のなかの、はたしてどのくらいが100年後も読まれつづけているだろうか。
私たちは、いま目の前にある作品が100年後も読まれているかどうか、判断するすべを持たない。
まあ、好きな作品ならなにを読んでもいいのだが、もし文学行為に深く関わるような朗読表現の勉強をしたいのであれば、50年以上の年月のふるいに残ってきた作品を使うのが無難だろう。

こんなことを書きたいのではなかった。
文学行為に深く関わる朗読表現をめざす、というと、多くの人は、
「作品世界を深く理解し、それを朗読者という媒介者を通して聴き手に伝えなければならない」
というようなことをいう。
また、こう読まねばならない、イントネーションは正しく、言葉のキレはよく、明瞭で美しい日本語で、こうしろああしろと、「ねばならない」のかたまりのような指導が行われることが多い。
それはまったく文学行為の本質を理解していない指導といわざるをえない。
文学行為とはなにか。あるいは文学とはなにか。文学作品を読むにあたって、朗読者はそのことをまず深くかんがえてみる必要がある。
今夜の朗読ゼミでは、そこのところをまず押さえてみたい。
いつものように、テキストは夏目漱石の『三四郎』。このテキストがまた極めつけに楽しいのだな。
(演出・水城ゆう)

2010年11月20日土曜日

宮沢賢治「祭の晩」@中野ピグノーズ「げろきょでないと Vol.22」

2010年11月16日(火)に中野ピグノーズでおこなわれた「げろきょでないと」の第22回ライブから、宮沢賢治の「祭の晩」という短編の朗読セッションをお送りします。
朗読は野々宮卯妙と照井数男。
照井数男はMacBookを使った電子音源やヴォイス加工でも参加しています。
そしてピアノは水城。
即興性の高い、参加者もどこへ行くのかわからない、スリリングなセッションとなりました。

ケロログ「RadioU」で配信中。

2010年11月19日金曜日

朝ゼミ・気づき報告(2)

つづきです。
現代朗読協会の朗読ゼミでは、毎回、最初に mindfulness の実践のために「気づき報告」をお互いにおこなっています。
そこでは朗読や表現に限らず、さまざまなことが話し合われる楽しい時間でもあります。
2010年11月18日の朝ゼミでおこなわれた気づき報告の一部をご紹介します。

ケロログ「RadioU」で配信中。

朝ゼミ・気づき報告(1)

現代朗読協会の朗読ゼミでは、毎回、最初に mindfulness の実践のために「気づき報告」をお互いにおこなっています。
そこでは朗読や表現に限らず、さまざまなことが話し合われる楽しい時間でもあります。
2010年11月18日の朝ゼミでおこなわれた気づき報告の一部をご紹介します。

ケロログ「RadioU」で配信中。

2010年11月17日水曜日

宮沢賢治「春と修羅・序」@中野ピグノーズ

現代朗読協会が中野ピグノーズで毎月おこなっている定例ライブ「げろきょでないと」の第22回から、一部を抜粋。
2010年11月18日、この日はいまにも雨が降りそうに寒く、お客さんも少ないと思われましたが、飛び入りの朗読&ヴォイス、ドラムスなどがあって、意外にも大変盛り上がりました。
この演目は、宮澤賢治の「春と修羅」という詩集の「序」の部分を、野々宮卯妙と照井数男が朗読したものです。
ほかに、ドラムスに飛び入りのアキモトさん、ヴォイスにやはり飛び入りのヤギさん、ちょこっとパーカッションでトクチさん、そしてヴァイオリンは店主の瑞穂さん、ピアノは水城ゆうと、大変ににぎやかなセッションとなりました。

野々宮卯妙、照井数男、水城ゆうは、12月に愛知県芸術劇場でのウェルバ・アクトゥス・アートの公演にも出演します。