今夜はこれから現代朗読ゼミの月一回の活動である「ブンガク部」が開催される。
朗読において、その表現材(テキスト)として文学作品を扱うことが多い。とくに著作権処理に面倒がない古い文学作品を使うことが多い。
古い文学作品を使う理由は、ただ「著作権処理が面倒でない」という理由だけではない。朗読行為と深く関係がある「人が言葉を使ってなにかを表現する」という原理的な行為の結晶がそこにあり、また明治後期から昭和にかけての近代文学には、文学行為の要素がほとんどすべて現出されているからだ。
つまり、わざわざ現代文学を使わなくても、文学行為に深くコミットした朗読行為が可能である、ということだ。
これらの「著作権が消滅した古い文学作品群」は、もうひとついえば、50年、100年という時をへていまだに読みつづけられているテキストであり、それにはそれなりの理由がある。いま、たとえば本屋の店頭に毎月のように現れては消えていく膨大な量の文芸作品のなかの、はたしてどのくらいが100年後も読まれつづけているだろうか。
私たちは、いま目の前にある作品が100年後も読まれているかどうか、判断するすべを持たない。
まあ、好きな作品ならなにを読んでもいいのだが、もし文学行為に深く関わるような朗読表現の勉強をしたいのであれば、50年以上の年月のふるいに残ってきた作品を使うのが無難だろう。
こんなことを書きたいのではなかった。
文学行為に深く関わる朗読表現をめざす、というと、多くの人は、
「作品世界を深く理解し、それを朗読者という媒介者を通して聴き手に伝えなければならない」
というようなことをいう。
また、こう読まねばならない、イントネーションは正しく、言葉のキレはよく、明瞭で美しい日本語で、こうしろああしろと、「ねばならない」のかたまりのような指導が行われることが多い。
それはまったく文学行為の本質を理解していない指導といわざるをえない。
文学行為とはなにか。あるいは文学とはなにか。文学作品を読むにあたって、朗読者はそのことをまず深くかんがえてみる必要がある。
今夜の朗読ゼミでは、そこのところをまず押さえてみたい。
いつものように、テキストは夏目漱石の『三四郎』。このテキストがまた極めつけに楽しいのだな。
(演出・水城ゆう)
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